女川町情報 < 復興 >

No. 書込日時 メッセージ
27 2011年10月16日 4:11
緊急要望書 
 10月3日
安住町長に対し緊急の要望書を提出しました
内容は寒さ対策と町民の声を集め、政策化したものです
どれも切実なものばかりで、実現をめざし頑張ります (安住町長あて緊急要望書)
26 2011年9月18日 22:13
復興計画修正案 
 9月14日、15日
復興計画に対し震災対策特別委員会で、@竹浦漁港を拠点港に加える。A運動公園を基本的に残す。急がれる復興公営住宅の建設に第二多目的運動場を検討する。B新田住宅のメモリアルは中止し、倒壊した建物の保存は住民の意見を尊重して検討する と委員会として修正しました。翌15日の本会議でも全会一致で基本計画の修正が可決されました。
これは画期的なことで、@は竹浦漁民の皆さんの真剣な運動が実を結びました。Aはアンケートの結果を見ても、千年に一度の津波に備えるとして高台移転を前提にした町長の考えは、住民の合意が得られていない、年間23万にも利用されている運動公園を残したいという、意見が議会全体の空気になりました。もっと地域住民とふれあい、一緒に考える姿勢に変わらなければ、事態は好転しません。
私たちは、生活再建、地域再建が土台にならなければ、真の復興にはならないと思っています。住民の力で復興計画をつくり上げましょう。その第一歩にしたいものです。
25  2011年9月11日 20:18
竹浦の人たちと懇談
 8月26日
竹浦地区の人たち20人ほどと懇談会。三浦一敏石巻市議団長にも参加していただきました。内容は竹浦地区も拠点漁港に指定していただき整備して欲しいと言うことでした。
津波の時は消防団の一員として防潮堤の扉を閉めるのに全力を尽くし、自分たちの船が流されたこと、今船を10数艘注文していること、浜には後継者がたくさんいることなどを説明され、何としても女川町の復興計画に拠点港として竹浦も入れて欲しいという切実な話でした。
できるだけのことをすると、約束して帰ってきました。
24  2011年8月26日 9:01
FRKとの懇談会
 8月19日
第4回目の民間団体復興連絡協議会と議会の懇談会です。今日は少し具体的な話になって、女川高校の校庭に約30の仮設店舗が11月にはできそうなこと。その財源は国際的な支援団体救世軍が1億円以上負担してくれ、建物は地元建設組合にお願いしたいとの話が出されました。また、コンテナ製氷施設も3基寄贈され、いま頑張っている民間の事業者に活用していただくよう考えていることなど、少しずつ動き出していることが情報提供されました。これからさんまのシーズンです。港女川の正念場に差し掛かっているのだと痛感しました。
23 2011年8月18日 6:02
第5回復興計画策定会 
 8月10日
女川原発については、脱原発の言葉はありませんでした。こんなに放射能汚染が広がり、どこまで続くか国民的な不安の広がりの中でも、原発に頼らないまちづくりを掲げられない復興計画というのがあるでしょうか。財政問題や仕事の問題はあると思います。しかし、それで危険な原発を抱え込ませる脅しに使ってはいけないと思います。財政や雇用は解決出来ます。しなければなりません。町長は、本当の住民の気持ちがわからないのではないでしょうか。
部落の集約化の文言は外されました。よかったと思います。「水産特区」も止めさせましょう。(Photo)
22  2011年7月10日 12:56
復興計画策定会議の会長さんたちと懇談会
 7月9日
復興会議の先生方に私たち議会議員の考え方もお伝えしようと懇談会が計画され、鈴木浩会長さんも快く同意してくださいました。
同僚の議員から、こもごも意見が述べられましたが、私は「住民の意見をもっと聞くべきだ。特に部落ごとに集まっていただきコミュ二テイを大切にした復興計画をつくって欲しい」と要望しました。
また、「アンケートをとって、住民意向を把握して計画をつくって欲しい」とお願いしました。
鈴木先生から「提案を活かしたい」と好意的な前向きの回答をいただきました。
21  2011年7月10日 12:56
第4回復興計画策定会議
 7月9日
午後1時半から女川町復興会議計画策定会議が開かれました。
はじめから、観光エリアから水産加工エリアが変更されていました。
相変わらず、運動公園を潰して住宅地に変える基本は変わりません。
それでも宮ケ崎や石浜、旭ヶ丘の奥などはちんと住宅地になりそうです。
そして、しつこいほどに、半島の集落は集約化を図ろうとしています。
漁協の責任者が「町長に悪いけど浜は誰も賛成できません」と集団化にきっぱり反対を表明しました。それなのに、まだ決まっていないからこのままで(集約化の図面)進めますと、おかしな話になりました。
7月20日から公聴会を行い、8月10日最終答申を行うと決めました。
私が提案した「部落ごとの話し合い」「アンケート」は最終答申後行うとなりました。
住民の意向を反映した計画作成にならないのではないかと不安を禁じ得ない結果になりました。
20  2011年7月10日 12:56
議会と復興連絡協議会との懇願会
 7月6日
第二回目の復興連絡協議会との懇談会が行われました。
冒頭、製氷工場再開への助成に感謝の言葉がありました。
これから魚市場を再開するためには、ガレキの撤去が最大の課題で、定置網が出来るのが7月半ばすぎではないか、8月までかかるかもしれないと、遅々として進まないガレキ処理に苦慮しているようでした。
そして、仮説の工場をつくろうと地権者の協力を得たが国の中小機構が話に乗ってくれない。そもそも、水産加工業を水産庁でなく中小企業庁が面倒を見ることになっていたことが、今度初めてわかった。
それにしても予算が少ないもんだから、なんだかんだと条件を付け、金を出してくれない。本当に困っていると訴えられました。
また、商工会会長から、町に震災対策資金の支援が欲しい。
そして、これからも月一ぐらいでこうした懇談会を開いて欲しいと復興連絡協議会から提案されました。
19  2011年6月13日 4:23
第三回復興会議で示されたゾーニング図
  貴重な倒壊した建物を遺産に。
五部浦地区は一か所の集落から3か所の集落に、町内は宮崎地区と旭ヶ丘地区に集落形成が。
しかし、まだ総合運動公園をこわして住宅地にという発想は変わっていません。
また、各部落でも今のままの集落を維持したいとの強い願いです。(PDFファイル)
18  2011年6月10日 20:06
復興計画策定会議
 6月10日
第3回目の復興策定会議が開かれました。少し変わりましたが、大きな変化はありませんでした。
もっと住民の声を大切にすべきです。アンケート調査などをしてから基本を決めていただきたいものです。
やっぱり「上から目線」です。これでは必ず不平不満が充満します。
なんといっても、自分の資産がかかっていますから・・・。
議会で住民懇談会をおこなってみてそう思います。
町民は一人ひとり、まじめに考えているのですから。
こうした被災者の人たちを主体にした取り組みこそ大切です。
生活再建、地域再建こそ復興の土台です。
17  2011年6月4日 5:57
復興連絡協議会 
  5月28日
女川町の若手4,50人で組織している復興連絡協議会と議会議員の懇談会が午後4時から持たれました。
一番は仮設の店舗を町で借り上げて、自分たちに貸してほしいということでした。
これまで中小機構へ仮設店舗の借り上げをお願いしてきたが、町で町有地を用意するか、担保のついていない民有地を町が借り上げることが条件で、しかも仮設店舗は町に貸与し、町民は町から借りるということで、「町にお願いしてもはっきりした返事がない」と不満をぶちまけていました。
もう一つは、水産業界が製氷工場を修理して稼働させたいが、1億円ほど資金が必要なので、町の補助がほしいということでした。
私からは、せっかくの運動公園をつぶして、来客を逃すのではないかと町の計画に疑問を呈してみましたが、若い人は「宿泊施設もないし、運動施設は最後の最後だから」と話していました。
私は違うのではないかと思いましたが、意見をお聞きしに行ったので、それ以上突っ込みませんでした。
16  2011年5月31日 7:34
みやぎ県民センター
 「みやぎ県民センター」結成の集いのチラシですPDFファイル
15  2011年5月28日 12:15
公聴会資料1
 (女川町復興計画公聴会資料 5月22日、27日)
14 2011年5月28日 6:21
病院対策特別委員会 
 5月24日
町立病院特別委員会を開きました。地震と津波の報告があり、病棟1階が水浸しになり、多くの医療機器が使えなくなりました。職員も2人犠牲になりました。こうした中で、3月13日から5月8日までの57日間で地域医療振興協会から、のべ1636人支援していただきました。本当に感謝申し上げます。7月まで支援がすでに決まっています。10月1日から、町立病院はこの地域医療振興協会に業務を指定管理する予定です。
13  2011年5月18日 21:38
浜に訪問活動 
 5月14日、北浦地区に訪問活動。江東区の正保議員さんたちが三小や保福寺など漁民の方々が多い、浜の避難所を訪問してくれました。「仕事をさせてほしい」、「食事つくりで疲れる、たまには石巻に連れて行って気晴らしをさせてほしい」「部落の高台に家を建てさせてほしい」などたくさんの意見が寄せられたようです。
12  2011年5月14日 6:32
復興計画について 
 5月13日、東京の江東区の区会議員さんたちに、避難所をまわり、お見舞いと激励をかねご要望をお聞きする活動に取り組んでいただきました。仕事が、雇用が切実な課題であったこと、女性の方は毎日食事つくりで疲れる。せめてバスなど出していただいて、石巻などへ買い物など楽しみがあればとか。仮設もいいが、港が見える近くの高台に家を建てさせてほしい。部落の人もそうであれば、自分の山を提供してもいいと語っていたと報告がありました。夜中に起きて、海の様子、風の様子などで沖に出るか判断する。そんな漁民の暮らしを考えたら、勝手に集落をまとめて遠くの高台に住めと言われても納得がいかないとの話。もっとものことです。もっと住民の声を聴いてほしい。この声は異口同音にどの漁村でも言われることです。
11 2011年5月14日 6:28 
復興計画について、聞き取り
 5月13日、ある水産会社の社長さんに復興計画についてお聞きしました。「人間待っても2年だ。その間見通しがなければ他に出ていく。仮設でもいいから工場を建て、仕事をしたい。そうすれば雇用も生まれる。賃金も払うからお金も回る。そして本格的な計画に移すべきではないか。全部できてから始めてくださいではもう人がいなくなる」という話でした。
本当にそうだと思いました。私が11日の臨時議会で「8年では人がいなくなる」と主張したことと同じ思いでした。
10  2011年5月14日 6:28
復興計画について、聞き取り 
  5月12日、復興計画案なるものを持って数人意見を聞きました。
Aさんは自分たちの部落で何人かと話し合っています。部落の土地を嵩上げして高台を開発してみんなで復興しようと語り合っています。この案の場合自分の土地は買い上げてくれるのか。どこまでの高さなら住宅を建てていいのか、もっときめ細かな説明がほしい。
Bさんはやっぱり人口が減る中、まとまったほうがいいのではないかと思う。
Cさんは、がれきの山をみてこれでは火災が発生してしまう。最終処分はどうするのか。
などの意見が寄せられました。
9  2011年5月10日 18:41   5月9日、女川町の復興計画策定会議が開催された。会長の鈴木先生は住民の意見を聞くこと。
この計画策定に住民が参加するように進めること。いろいろな取り組みを通じて復興計画を作る住民のエネルギーを引き出すこと。計画はできたが住民が女川から去っていくようなことにはならないようにしなければと、強い決意が何度も強調されました。
計画案そのもにのは、いろいろな疑問点が浮かび上がってきます。せっかくの復興計画ですから議会としても十分議論をしたいと思います。
8 2011年5月3日 19:38   第1回の復興計画策定委員会が開かれました。「町民の意見を聞きながら」、「部落にはそれぞれ歴史や文化がある」、「仮設住宅はコミュニティを大切に」とか貴重な意見も出されましたが、一方「スピードを持って」とか「段階をしっかり示すべきだ」とかいろいろな意見が出されました。資料を見ましたが、カラーでなく何が何だかわからないものでした。カラーの資料を事務局に要請しました。
これから、住民の意見が反映される仕組みを検討していきたいと思います。
7  2011年4月29日 19:56  女川町の復興計画を審議する委員会が5月1日に第1回会議を開きます。
私たち議員は全員協議会で、その計画案を議会の議決事項にすることを意思統一しました。
また、災害対策特別委員会を設置することを確認しました。
そのための臨時議会を5月11日に開催するよう町長に申し入れることも決まりました。
6  2011年4月26日 19:34  朝のラジオのニュースで、5月1日に女川町の復興会議を開催し、公共施設や住居は高台に、防波堤を作り、土地を嵩上げし、避難路を確保してそこに商店街をつくり、12ある漁港は漁民の合意を得て集約するという、計画を議論し、5月半ばには策定するという。あまりに拙速なと驚きの内容です。どんな計画でも住民の合意がなければ、必ず破たんし、多くの町民の苦難を生み出すのではないでしょうか。私は、何よりも住民の合意形成が大切だと訴えて頑張りたい
5  2011年4月15日 20:56  阿部律子町議とともに安住宣孝町長へ緊急要望書を提出しました。雇用の確保や支援金の早期支給、停電の早期解消など中身は12項目に及びました。(4.15緊急要望書
4  2011年4月12日 19:54  今日は議会全員協議会が開かれました。私たちは瓦礫の撤去などに町民を雇用できないかと提案し、町に話をして欲しいと議長に訴えました。また、2億円で仮の役場庁舎を建設するという話には町民感情から同意できないと申し上げました。
3  2011年4月7日 19:55  共産党の穀田議員の頑張りで女川町にも交付金が出ることになりました。本当によかったです。
2  2011年4月6日 20:12  国は被災自治体に6月の地方交付金を繰り上げて交付するとのこと。ところが女川町は原発で不交付団体だから出さないという。共産党の穀田議員がすべての自治体にと頑張ってくれました。国会議員が何人きても、と町幹部。町の7割も津波で破壊尽くされた町への非情な対応をぜひ知っていただきたい。
1  2011年4月6日 19:20  町災害本部の数字では、1万人の町で生存者数は、8316人で、行方不明は873人、遺体が369体となっています。本当に悲しい現実です。私の友人は火葬もできず、仮土葬で明日埋葬します。

書込み開始 2011年4月6日〜

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