女川町情報 < 避難生活 >

No. 書込日時 メッセージ
25 2011年10月16日 4:11
コンサート 
 10月5日
東北大の学生時代のつながりで、コンサートが実現しました。長い避難所暮らしのひととき、心休まる思いでした。女川の木村歯医者さんもフルートを吹いてくださり、みな感激でした。高橋先生、後藤先生ありがとうございました。 (Photo)
24 2011年8月30日 10:46
被災後の町 
 6月頃の女川町の街並み
同じアングルで撮った映像は、3月11日、私の家の方向。海のようになった部落と、その後津波が引いた時のガレキの山になった同じ部落の様子です。 (Photo)
23  2011年8月26日 10:14
アカペラ
 8月25日
慶応大学のサークルのみなさんです。きれいなハーモニーを聞かせていただきました。(Photo)
22 2011年8月26日 9:01
取材記事 
 8月24日
小松さんの取材記事が「あかはた新聞」8月24日付けに載りました(Photo)
21  2011年8月26日 9:01
 青葉の会の皆さんたちが
 8月22日
以前からお話があった、青葉の会の鈴木さんたちがみんなでおいでになりました。心の準備ができないまま、迎えてしまいました。雨の中です。阿部律子議員も参加してくださったので、看板の張り出しのお願いや、仮設住宅へのチラシと有名な今治のタオルなどを配布し、困ったときには「青葉の会」などにご連絡をと頑張ってくださいました。
折しも、あかはた新聞の記者が来られて小松さん宅に私は直行し、仮設住宅に住んでのご感想と共に「おんぶしてくれた人への感謝」を記事に取材していただきました。
20 2011年8月26日 9:01
和子さんが原村から 
 8月21日
やっと原村から和子さんが帰ってきました。ほとんどこの間電話がありませんでした。私も意地を張って電話をかけませんでした。わかる?この気持ち・・・。
夜9時過ぎ石巻に迎えに行きました。結構強行軍だったと思います。ほとんど晴れ間はなかったとのこと、八ヶ岳の自然が綺麗なのに残念でした。でも美術館に入ることができたとのこと。私も行きたかったです。合唱の方もうまくいったようです。教え方が上手だったとなんども言っていました。みなさんありがとうございました。
19 2011年8月26日 9:01
和子さん 原村へ 
 8月18日
ムジカの合唱が長野県原村で行われるので、気分転換を兼ねて、和子さんが参加することになりました。熊沢さんからのお誘いによって実現しました。それで石巻から夜行バスで新宿へ、次の日の朝皆さんと合流し原村へ。夜10時に出るバス停まで送りました。帰ってくるのは21日の夜。それまで私は和子さんの居ない毎日です。原村には清水さんもいますので、安心ですが・・・。
18  2011年8月26日 9:01
盆祭り
 8月15日
女川町総合運動公園第二多目的広場で、盆祭りが行われ、復興連絡協議会やボランテイアのみなさんが中心となって頑張ってくれました。潮騒太鼓が勇壮な演奏を披露し、犠牲になった830人の御霊を弔い、風船をあげました。また、夜は盆踊りが行われ、ささやかながらも花火が打ち上げられました。みんな手作りで派手さはありませんが、気持ちのこもった盆祭りでした。(Photo)
17  2011年8月18日 6:02
墓参り
 8月14日
私たち夫婦と晃夫婦とさや、それに路子夫婦と孫たち2人、合計9人そろって父の墓参り出かけました。そうしたら私の妹夫婦とその息子夫婦や孫たちまで偶然にお墓で会い、賑やかな墓参りになりました。
そのあと93歳になる母を病院に見舞いに行き、路子がお腹にも赤ちゃんがいる、12月に生まれるから元気でいてくださいと声をかけていました。あんまり大勢で押しかけ、目を白黒させていました。帰るというと、さびそうにして、なかなか手を離してくれませんでした。
その後も和子さんの方の墓をお参りし、お兄さんの家にお邪魔し線香をあげ私たち夫婦は食事のボランテイアがあり、早々に退席してきました。晃夫婦や路子夫婦はその後もゆっくりしていたようです。(Photo)
16  2011年7月25日 9:49
夏川りみさんがマイクなしで
 7月24日
夏川りみさんをはじめて間近に見ることができました
そしてマイクを使わず生で歌ってくれました。
嬉しかったです。
こんなに気さくに接してくれて嬉しかったです。
若返ったかな (Photo)
15 2011年7月22日 19:16
温泉旅行
 7月16日から18日
2泊3日の温泉旅行です。
宮城県が避難生活をしている家族に温泉をプレゼント。
それなら私たちもと応募したら当たってしまい、白石市の小原温泉いずみやさんに世話になりました。
避難所では出来ない、名簿の整理などをしました。
私は好きなだけ音楽を聴きました。
食事が素晴らしかったです。
福島に近く、プールは中止になっていました。(Photo)
14 2011年7月22日 19:00
ほうねん座公演
 7月12日
ついにほうねん座公演が実現しました。
暑い陽射しの中でしたが観客もそれなりにいて、何よりもほうねん座のみなさんが真剣に太鼓や笛、民謡など演じてくれました。
最後に佐藤長五郎さんが楽しそうに飛び入りで太鼓をたたき、「気持ちよかった」と興奮して語ってくれました。(Photo)
13  2011年7月10日 12:56
秋山さんたちから扇風機など
 7月8日
京都の秋山夫妻やなかまの皆さんが、それぞれ出し合って扇風機や野菜、トイレットペーパー、スプーンなどを送ってきてくださいました。
いずれ仮設住宅に入れば必要なものを送りますとメールがきましたが、暖かい心遣いに感謝です。
特に扇風機。充電式でライトもついて、車のなかの事務室にと考えて送ってくださいました。
体育館の避難所の私たちのブースで使わせていただいています。
コンセントが届かなくとも扇風機が動くなんて夢のようです。
「いまどき扇風機なんて贅沢だ。どこを探してもないんだから」と友人から言われ、省エネのキャンペーンの中、エアコンでなく扇風機なのだと納得しました。孫と一緒に涼をとっています。
12  2011年7月10日 12:56
孫がどんどん大きくなって
  7月3日
日曜日路子たちが激励にやってきてくれました。
孫たちがどんどん大きくなってびっくりしています。
水産特区に反対する集会があって私は途中でお別れです。(Photo)
11  2011年7月10日 12:56
漁業者を守ろう
 7月3日
石巻専修大学で、宮城の漁業を守ろうと350人以上が集まりました。
復興支援宮城県民センターが主催しました。
村井知事が「水産特区」を提唱し、これまで漁協に一元的に使用させていた漁業権を、企業にも漁業権を与えるという暴挙に出たからです。しかも県漁協になんの相談もなく!
これには漁協が怒るのは当然です。
また、宮城県の水産を守る立場から、水産加工会社の社長や買受け人組合の方、生協の方も発言がありました。
本当に盛り上がった集会でした。(Photo)
10 2011年7月10日 12:56
魚市場再開
 7月1日
今日は女川町の心臓とも言える魚市場が再開された日です。
キンキやカレイなどの魚が魚市場に並べられ、勢いのいいセリにかけられました。
100人以上の人が集まり、女川町の水産業の復興に期待を寄せていました。
また、8時半からは、コンテナを並べてつくった商店街で、発会式がありました。
9店舗が集まり、とにかく、買い物ができるようはじめようと、コンテナの支援をいただき、敷地の協力もいただき、自らの手で開会にこぎつけました。
少しづつ、復興への努力が始まっています。(Photo)
9 2011年6月5日 13:17
黒柳徹子さんらが 
 6月4日
女川の総合体育館に黒柳徹子さんとアグネスチャンサンが訪れ、励ましてくれました。
いつまでもお元気な黒柳さん。すごいですよね。
アグネスチャンサンの純真さ、けなげなしさは相変わらずです。
みんなとっても喜んでいました。

ところで、復旧復興支援みやぎ県民センターの代表委員会が仙台で午後6時から開かれました。
会議は8時半過ぎまでかかり、女川に着いたのが11時15分ごろでした。
何も食べる気がしなく、ぐったりしてしまい、今日もドリンクを飲んでしのいでいます。
やはり、仙台の夜の会議はご遠慮するかなと弱気になります。 (Photo)
8  2011年5月19日 8:09
生活相談など 
 5月18日、依頼されていた生活相談の解決に奔走しました。一つは家の崖の崩壊に対してどうするか。一つは失業中の母子家庭でおばあさんの介護利用料や介護保険が安くならないか。後ろの崖崩れが心配。もう一つは仮設店舗を作るのにがれきの撤去を急いでもらえないか。本当に埋葬料が国から出るのか。など問い合わせが殺到しています。一遍で解決できませんがそれぞれ執行部に問題提起をしています。
 安達芳美さんの火葬と葬儀がしめやかに執り行われました。私が町議になった時からずっと傍にいてくれた方です。これからも見守っていてほしいと合掌しました。丁寧な読経に胸を打たれました。
 Mさんのお見舞いに仙台医療センターに行ってきました。Mさんは8月に江東区で第九を合唱するため奔走していたようで、それがかなわず残念そうでした。せっかく津波にものまれず助かったのだからもっと生き抜こうと声をかけてきました。
7 2011年5月18日 21:38
 浜に訪問活動
 5月14日、北浦地区に訪問活動。江東区の正保議員さんたちが三小や保福寺など漁民の方々が多い、浜の避難所を訪問してくれました。「仕事をさせてほしい」、「食事つくりで疲れる、たまには石巻に連れて行って気晴らしをさせてほしい」「部落の高台に家を建てさせてほしい」などたくさんの意見が寄せられたようです。
6  2011年5月14日 6:28 5月11日・12日、世田谷区の区議さんたちが支援に入ってくれました。お届け隊や青空市の支援物資を配布する活動もいいのですが、ちょうど2か月です。避難生活をしている方に直接声を伺う活動に取り組んでいただこうとお願いしました。体育館に避難されている方々から聞き取りを始めたようです。初めはご婦人の方から被災の様子をお聞きしたり、ご要望を聞きました。「とにかく聞いていただくことが本当にうれしいです」と言われたとのこと。ところが午後になると、たき火で煙草を吸っていた男たちに声をかけると「高野は何しているかわからない。パフォーマンスばかりでないか」などと非難が集中したとのこと。この報告を受け改めて、もう2か月。仕事がなく見通しのない苦しさをぶつけてきたのだと痛感しました。また、この間、16人の議員のうち、4人が不幸に会われ、10人の議員が家を流され避難生活、そんな中、私だけが頑張っているような誤解を与えてはいけないと思い、私の活動報告を文書で届けていない弱点もここにきてあらわれていると思います。もう正式に議会も開かれたことですし、改善したいと考えています。
次の日、世田谷の区議さんたちは海泉閣にいって漁民の話を聞きました。本当に腹を割って話してくれたようです。「海の見えるところで暮らしたい」「早く仕事がしたい」と口々に語っていたようです。
5 2011年5月14日 6:28  5月11日、この日は白川県議も女川の仮設住宅に入居した方々を訪問してくださいました。みなまず、ほっと安堵しているとのこと。しかし、お金の面で苦労をされていること、車がなく動きずらいこと、買い物が大変で野菜など何もかも不足していることなど話が出されたとのことです。まだ先のことは考えられない様子でした。やっと一息かな。
4 2011年4月8日 18:17   今日の真夜中、強烈な地震に襲われました。体育館のバスケットボールのゴールネットが外れかろうじてチェーンで落下を免れました。余震がおさまるまで外で待機しました。路子から早速メールがきました。
3 2011年4月7日 20:40  4月7日 今日は活動を一緒にしてきた大切な人の仮埋葬だった。妹さん夫婦や子ども、お孫さんとともに、支部の仲間も参列しました。悲しい別れでした。
 2 2011年4月7日 20:07  固定電話がなくなり、和子さんの携帯電話も必要になり、仙台まで出かけて購入してきました。
1 2011年3月31日 6:04 私たちは体育館に雑魚寝。疲労がたまって、大変です。孫は予震が怖くていまだに車生活です。

書込み開始 2011年3月31日〜

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