3・11その時女川原発はどうだったのか、 現地からの報告
                           2012.12高野博 講演概要
高野博さんより
「こんな感じでこれまで講演してきました。講演会ではこの前に、DVDで福島の現実を見ていただき、新たな市民運動の広がりも少し紹介された(今年の5月完成のDVD 全国連絡会作成)を上映してから、お話をするようにしています。パワーポイントで使っている資料とPDFの資料を添付します。」

パワーポイント資料はこちらからダウンロードしてください。 パワーポイント版 PDF版 

福島の事故はまだ終わっていません。原因究明も原子炉の中がわからず、これから何年もかかるでしょう。
多くの人々が家族を引き裂かれ、故郷を追われ、農業など先祖伝来の土地までがセイタカアワダチソウに被い尽くされています。
海は放射性物質が垂れ流され、次々とセシュウムが検出されています。
いくら「ガンの発生が少ない」と言われても誰も信じる人はいません。はじめから政府や電力会社、御用学者、国際機関が正しい報告をしてこなかったことが、住民をいっそう疑心暗鬼に陥れています。



あの時、女川原発はどうだったのでしょうか。M9の巨大地震に襲われましたが、女川原発の敷地では震度6弱と報道されました。たぶん震源との距離が130キロと大変遠くだったからでしょうか。東北電力の発表では自動停止し、冷温停止状態になったと、次の日には報告されたようです。私たちは総合体育館で2000人以上の避難者でごった返しする中で、町民の安否確認に追われていました。



ところが、昨年5月頃に少しずつ実態が明らかになってきました。


@ 外部電源は女川原発は5系統を有していましたが、当日は4系統がダウン、使用不能になって、残った1系統で辛うじて冷却用の電源を確保したというのです。
しかも4月7日の余震の時、1系統は点検中で、4系統が使えるはずでしたが、その時も3系統が使用不可能になり、1系統だけで冷却したとのことです。
しかも3月11日と4月7日の地震で残った外部電源は違っているのです。
女川原発の外部電源は無傷の物はなかったわけで、すべて使用不可能になっていても不思議ではなかった、まさに奇跡的なことで電源を確保したと言えるのではないでしょうか。



A では津波はどうだったのでしょうか。女川町を襲った津波は約18mといわれ、827人の死者行方不明者をだし、町の3分の2に及ぶ2400世帯の家が流されるという犠牲を生み出しました。
一方女川原発の敷地の高さは14.8mで、地震の影響で地盤沈下が起き、約1m下がって敷地の高さは13.8mとなりました。そこに13mの津波が押し寄せ、わずか80pの差で水没を免れたといわれています。
東北電力は福島第一原発との違いを東北電力の経営陣が、あらかじめ津波の歴史的文献を調査し、14.8mという高さに原発を設置していたから助かったという宣伝を行っています。
しかし、福島第一原発と比較するなら、津波の高さ福島第一では15mといわれており、女川原発に15mの津波がやってきたら、間違いなく水没し、福島第一原発の大事故と同じことになっていたに違いありません。
2006年、平成18年5月、東北電力と国の原子力安全・保安院が溢水勉強会を開催し、14.8mの敷地より1m高い津波が押し寄せ浸水した時の影響を調査しました。その結果東北電力は、全電源が喪失すること、緊急冷却装置のポンプなど安全装置が機能しなくなることなどが評価されました。
しかし、東北電力も国も次の対策を立てようとはしませんでした。

B 昨年5月14日、東北電力の女川原発の内部に入る機会を得ましたが、その時1号機では高圧電源盤で火災が発生し、夜中の11時近くまで8時間も消火できなかったこと、2号機の地下3階には水位計を伝って入ってきた海水が配電用の管を通し約1900dも流入し、ポンプ室や熱交換器を水没させるという事態を引き起こしていました。
残ったポンプや熱交換器もあって、まさに片肺飛行のような状態でした。
吉井英勝前衆議院議員がどれほどのトラブル不具合があったのかとただすと600か所以上と答えました。まさに女川原発は被災した原発です。

C 3月13日午前1時50分ごろ、東北電力の敷地内の放射能測定装置で 平常の約700倍の、1時間当たり21マイクロシーベルトという放射線量が観測されました。
前日の東京電力福島第一原発1号機の爆発があり、放射能雲が120キロ離れた女川原発まで流れてきたのでしょう。そしてそれが北上し登米や一関、栗原と流れていったのかもしれません。

問題はその時国や県に報告はしていたと思いますが、私たち女川町の総合体育館に避難している町民には、安定ヨウ素剤を服用するようにとか、マスクをすることとか、外出は控えようとか、町中をまず放射線を測定するとか、東北電力から指示は一切ありませんでした。
女川原発の敷地内の体育館に避難している住民にもまったく何の放射線防護の手立ては撮られていませんでした。これで原発を動かす資格があるでしょうか。




D 私たち住民運動は、1988年から1995年にかけて女川原発の2号機3号機の公開ヒアリングの席上で「女川湾はチリ地震津波の時海底が現れるほど引いて行った。津波の引き潮の時、原発の冷却に使う海水を確保することはできるのかと」追及しました。もちろん「引き波の後押し波が来るのですが、その時の砂や堆積物が流入し、取水口をこわされないのか」とも質しました。

東北電力と国は2号機当時最低水位をマイナス6.5mとしていた引き波の想定を3号機の申請書ではマイナス7.4mと見直し、それに伴って取水口前面の海域をマイナス10.5mに浚渫、掘り下げると言明しました。約12万立方mの浚渫だったといわれます。深いところで約4mも掘り下げたのではないでしょうか。
問題は東北電力の説明図では開口水深はマイナス10.5mとしたのですが、取水口はどうしたのでしょうか。そこがよくわかりません。いずれにしろ、津波が押し寄せましたがその時、従前どおりの浅い海底のままだったら、女川原発の敷地に津波は駆け上がっていたのではないでしょうか。そして海水ポンプなどを水没させ、原子炉を冷却できず、炉心溶融まで至っていたのではないかと思うと、本当にあの時の住民運動の取り組みが大きな役割を持っていたのではないでしょうか。

E 先にお話しした5月14日、女川原発の視察の際、原発の所長から「高野さんたちのおかげで、女川原発は配管の裕度工事をすることが出来、福島のような事故に至らなかったことに感謝しています」と階段を上っているときに後ろから言われました。
思えばこの間配管の減肉問題や配管の穴あきが続き、配管管理が大問題になりました。2003年と2005年基準地震動を超える揺れを観測しながら、何の対策もせず解析して安全を確認したといい2006年女川原発を再稼働してしまいました。そのしっぺ返しの様に 2007年新潟県中越沖地震が起き、原発の耐震指針の見直しが待ったなしという事態になりました。女川原発は従来の1.5倍の580ガルの基準地震動を設定し安全確認をしたとして運転を再開するのですが、その時順次耐震補強工事を行っていたのです。
しかし、応力腐食割れの根本的対策がない中、圧力容器や格納容器、再循環ポンプなど最重要機器での耐震補強は行われず、根本対策は行われていないのです。

F 最後に、いま過酷事故対策の一つ、津波と電源確保の対策として、防潮堤の設置、電源装置、電源車の配置、水素を排除するベントの設置などが行われ始めていますが、どれほどの効果があるのか、規制機関の実証的検証も行われていません。
また、過酷事故は何も津波だけでなく、原子炉の水が失われる(冷却材喪失)事故や制御棒が入らず暴走する事故など、過酷事故は起きるものとして真剣に検証すべきでしょう。過酷事故を前提とした防災対策も待ったなしです。
そして、事故がなくとも原発が稼働すれば核のゴミといわれる高レベルの放射性廃棄物が発生します。いまだこの処理処分の方法はありません。 子孫末代までつけを回してよいのでしょうか。改めて私たちに問われています。