日本共産党女川
女川民報< 希望 >

No. 書込日時 メッセージ
15  2012年11月28日   今日は女川民報を送ります。
女川民報2012年1月 原発ゼロの社会をめざして
女川民報2012年5月 女川原発の再稼動に反対しましょう
女川民報2012年7月 17万人「原発なくせ」と
14 2011年11月24日 8:33
10回目の当選です
 11月24日
久しぶりです。やっとブログにむかいます。13日の町議選で第二位で当選しました。阿部律子さんが第三位で当選し、有効投票4998票のうち二人で1107票。得票率は22%を超えました。この背景には、女川原発をもう動かさないで欲しいという切実な願いが託されています。もう一つは被災者に寄り添った救援活動への評価がありました。それにしても選挙は家族だけでやらなければならないのかと悲壮感をもって準備に入りましたが、なんと三重県の出馬さんをはじめ、美里町の畠山さんご夫婦や仙台から毎日通ってくれた尾形さん、選挙前から投票日前まで何人も代わる代わる支援してくれた長野県池田町の皆さん、東京都の各地区のみなさんも応援に駆けつけていただき、セツルメントの後輩のみなさんに激励を受け、本当に数え切れないくらいの人々の支援のおかげです。実際の選挙のでは登米市の二人の市議会議員にすっかりお世話になりました。
22日早速初議会が行われ、私は総務民生常任委員会の委員長と震災復興対策特別委員会の副委員長、議会運営委員として頑張ることになりました。 (Photo)
13 2011年11月16日 6:14
 当選
 やっと長い町議選が終わりました。絶対勝つと決意して全国の仲間の支援をいただきました。結果は私が567、阿部律子さんが540の得票で、2位、3位でした。得票率は22.15%でした。また、石巻・女川選挙区の県議選で三浦一敏候補が初当選しました。女川では15.4%の得票率でした。
今日は140軒に選挙結果の女川民報を配布してきました。お会いできた人はとても喜んでくれ疲れも吹っ飛びました。これからもコツコツ歩き続けます。
多くの方からお祝いの電話やメールが届いています。本当にありがとうございます。
仮設住宅の寒さ対策、住民本位の復興と女川原発の再稼働を許さないという願いを実現するために全力を尽くします。
当面、選挙選の様子は村端さんのホームページ「あずみのつれづれ日記」をごらんください。少しオーバーなところもありますが・・
妻は、仙台に嫁いでいる娘が3人目の出産まぢかということで娘のところに行ってしまいました・・・。 (選挙結果)
12 2011年10月2日 18:48
フレッシュ便28号届 
 10月2日
やっと多目的運動場の仮設住宅154世帯にフレッシュ便を届けて歩きました。そこで、お米の供給があってもいいのではないか、雨樋が欲しい、炬燵があれば助かるなど、要望をお聞きしました。 (Photo)
女川民報2011年10月
11  2011年10月1日 20:18
フレッシュ便28号
 9月29日
フレッシュ便の復活です。やっとこれを持って仮説住宅をまわり始めています。 (高野博フレッシュ便)
10  2011年9月27日 7:09
事務所ができました
 9月23日
プレハブの事務所が一日でできました。清和田さんのお力と、尚也さんや工藤さん、高橋さんなど6人で午前中基礎から組立を行い、午後から石巻のボランテイアのみなさんも加わって、屋根を葺き、完成させました。15坪の立派な事務所です。隣の植木さんから、電気と水をお願いし、約1ヶ月半ここを拠点に全力で頑張ります。通る人から「がんばって」と声をかけられるやら「ここで何かお店をしてください」と言われ、なるほど、そんな要望もあるのだなと思いました。 (Photo)
9  2011年8月26日 10:22
「女川民報」届け2 
 8月20日
昨日に続き、阿部律子町議と一緒に、旭が丘北仮設住宅のみなさんに「女川民報」7月号を届けて歩きました。そこで出島の須田三千男さんとばったり出会いお邪魔しました。私が一番最初に学校の教員をやめて議会に出るときお世話になってからのお付き合いです。そこで須田昭之助さんに電話をしていただき、本当に久しぶりに元気な声を聞きました。懐かしかったです。また、外に出ると知り合いが次々出て、路上で会話が弾みました。小松さんにお会いしたら、「あの時家ごと流され、娘と寒さに震えながら一晩過ごし、やっとの思いで歩いていたとき、私をおぶって助けてくれた人がいます。でも名前も分からなく・・・お礼がしたい」と語っていました。それなら、「新聞に載せていただきましょう」と私。そんな出会いもありました。途中で大崎から村山さんが訪ねてきて、途中で訪問活動は打ち切りました。(Photo)
8 2011年8月26日 9:01
 「女川民報」届け1 
 8月19日
阿部律子町議と一緒に、第一小学校仮設住宅と針浜仮設住宅を訪問し、6月議会報告の「女川民報」を届けて歩きました。一番印象的だったのは「玄関網戸を付けるため頑張っていただき感謝します」と言われたことです。とくに個人で付けた人にお金が戻ってきたことに感謝されました。また、針浜では床下に雨水が入ってしまうと訴えられました。女川民報2011年7月
7  2011年8月4日 6:58
女川民報7月号やっと完成
 7月30日
議会報告を兼ねた女川民報7月号がやっと完成しました。
6月議会報告をしたいと思いましたが、なかなか出来ず、
表は、私たちの復興計画に対する姿勢を明らかにすること、さらに、阿部律子町議とわたし高野博が町議が最近取り組んでいる課題、加えて、これまでの党とボランテイアの皆さんの活動を紹介しました。
裏面は議会の一般質問を簡潔に紹介し、町当局の原発事故への不誠実な姿勢を明らかにしました。
一方、復興計画をめぐって、住民との懇談会を14回も展開し、その中間報告を執行部に提出しています。
最後に、規制機関とは程遠い、原子力安全保安院の実態が明らかになりました。(Photo)
6  2011年7月22日 19:10
ポスター貼り
 7月14日
和子さんと一緒にポスター貼り。みな街は津波に流され、私たちの地域ではポスターを貼るところがありません。
でも、ありました。
出口さんからいただいた車に立派にポスターを貼ることができました。
私たちの活動の方向が見えます。(Photo)
5  2011年6月4日 6:09
棄権は当然 
 6月1日
やっと女川までしんぶん赤旗の日刊紙が毎日届くようになりました。
本当にうれしい。
党利党略の不信任劇。被災者から見ると「何やってんだ」と怒りたくなります。
日本共産党の志位さんが棄権をすると表明したことは、共感できます。
4 2011年5月22日 19:32
 宣伝カーが
 5月22日
軽ワゴンの宣伝カーが大阪市豊中市から出口文子市議と旦那さんの保幸さんが運転して女川まで持ってきてくれました。看板もついています。<生活再建 地域再建が復興の土台 日本共産党>素晴らしい言葉です。いまはスピーカーで宣伝する雰囲気ではありませんが、来る町議選では大いに力を発揮していただきましょう。出口文子さんが2度勝ち抜いた選車ですから。いまは移動ができる支部の事務所になっています。今日からさっそくこのパソコンを打ったり、メールに添付していた文章を印刷したり、大活躍です。本当にありがとうございました。(Photo
3 2011年5月18日 21:38
チラシ配布 
 5月17日、江東区の正保議員さんたち3人が、避難所を中心に「女川民報」<希望>の第一弾を、第二支部の和子さんと一緒に配布してくださいました。500枚ぐらいでしょうか。その中で、「ここにいる人たちは女川に残りたいと思っている人だから、大事にしてほしい。何よりも情報がほしい」とか「仮設診療所のことが知りたい」など意見が寄せられ、「埋葬費用のことはじめてわかった」とチラシを読んで感想を寄せてくれました。女川民報2011年5月
2 2011年5月18日 21:38
チラシ作製
 5月15日,16日、「高野は何しているかわからない」と聞き取りで言われてきたことがショックでした。そこで念願のチラシを作る決心をいたしました。15日夕方から正保議員とその仲間の力を借りて、日本共産党女川第二支部のチラシを作成していただきました。内容は、国会で日本共産党の議員が被災者救済の新しく制度を提案して実現したり、検討をさせたりしていること、県議会議員さんが頑張って災害救助法の制度の充実を図っていること、高野博の活動、義援金やお届け隊として支援活動を展開していることを紹介すること、などを盛り込みました。16日印刷出来上がりました。
 やっと素晴らしいチラシができました。今度は何を紹介しようかと、毎日の赤旗新聞を読むことが楽しみです。
1 2011年5月18日 21:38
<高野は何してるかわからない> 
5月14日、総合体育館の人たちから、「高野は何しているかわからない」と話されたのは私にとって本当にショックでした。しかし、そんな話も出てくるかなと思ってもいました。原発の資料を集めるのも石巻の事務所でしかできないし、パソコンの充電も石巻でしかできないわけで、とにかく外に出ている時間が多かったですし、このままでは大変だと思っていました。しかし全国の支援を受けてこんなに頑張っているときもありませんので、何とかチラシにして配布したいと思います。
日本共産党が発行するチラシにすれば、住民感情にも配慮したものにできると思います。やっとその気になりました。

書込み開始 2011年5月18日〜

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